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仙台高等裁判所 昭和61年(ネ)424号 判決 1987年11月16日

控訴人

須藤馨一

右訴訟代理人弁護士

浅野孝雄

被控訴人

山﨑照雄

被控訴人

山﨑恒子

被控訴人

柏木治子

被控訴人

柏木正一

被控訴人

柏木達夫

被控訴人

山﨑光

被控訴人

佐藤節子

被控訴人

志賀孝子

右八名訴訟代理人弁護士

佐々木健次

主文

一  原判決を取消す。

二  被控訴人らは控訴人に対し別紙物件目録記載の土地について昭和二六年月日不詳売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

三  被控訴人らの本訴請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴人

1  原判決を取消す。

2  (主位的請求)被控訴人らは控訴人に対し、別紙物件目録記載の土地につき昭和二六年一一月三〇日売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

3  (予備的請求)被控訴人らは控訴人に対し、右土地につき右同日あるいは昭和三八年九月二九日時効取得を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

4  被控訴人らの本訴請求を棄却する。

5  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

二  被控訴人ら

本件控訴を棄却する。

第二  当事者の主張及び証拠

原判決事実摘示及び当審記録中証拠関係目録記載のとおりであるからこれを引用する。

理由

一本件土地がもと亡陳平の所有であつたことは当事者間に争いがない。

二<証拠>によれば、次の事実が認められ、<証拠>中右認定に反する部分は前掲各証拠に照らし直ちに採用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

1  本件土地及びその周辺にある宮城県柴田郡大河原町大谷字下川原七番一、八番一、二、四、六、七、一一ないし二〇、二二ないし二四(以下、地番のみをもつて表示する。)等の各土地は、もと有限責任柴田郡養鶏購買販売利用組合が所有し、八番四地上に鶏舎、倉庫兼事務所、本件土地上に便所等の建物を築造し、同所で養鶏事業を営んでいた。控訴人の父新三は、昭和二年頃から右組合に用務員として勤務し、養鶏の仕事に従事していたが、同組合が昭和四年頃倒産したため、同組合から鶏舎、事務所、便所等を譲り受け、同組合に代つてみずから同所で養鶏事業を営み、控訴人も昭和五年頃からこれを手伝つていた。その後、本件土地を含む右各土地の所有権は、昭和八年五月八日同組合から保証責任宮城県信用組合連合会に売買により移転し、その際、新三は、右連合会の要望により、本件土地上の便所を除く建物を八番二土地上に移転させ、右土地で養鶏事業を行い、本件土地上の一部には引続き便所を所有し、その余の土地は畑として耕作するなどして占有していた(なお、新三は本件土地の北側に接している河川敷についても、宮城県知事から占用許可を得て、防風のため竹を植えて占用使用していたが、本件土地上の一部にも右の竹が次第に繁茂するようになつていた。)。

2  他方、被控訴人らの父陳平は、明治末期頃から主として生活の本拠を朝鮮におき、第二次世界大戦終結後まもなく同県柴田郡大河原町に帰郷したが、この間の昭和九年一〇月六日叔父太田文雄を代理人として、右連合会から本件土地を含む右各土地を買い受け、同月一三日その旨の所有権移転登記手続をし、以後右帰郷までの間、右各土地の管理を右太田に委託していた。右委託を受けた太田は、ひきつづき本件土地を含む右各土地を新三に賃貸し、以後新三は、右各土地の賃料を陳平宛に支払い、八番二土地上の建物に控訴人らと居住し、養鶏事業を営みながら、右借り受けにかかるその余の土地を畑として耕作するなどしながら生活していた。

3  ところで、陳平の帰郷後、農地解放政策が実施されるようになり、新三は、自作農創設特別措置法により、昭和二三年七月二日、陳平の所有していた八番六、一三、一四、一五、二〇の各土地の売渡を受け、新三の子である控訴人も大河原町農地委員会の指導のもとに同年七月一〇日陳平所有の八番二の土地の売渡を受けた。

4  新三は、昭和二六年頃、買収、売渡にならなかつた本件土地及び八番七の土地(本件土地及び八番七の土地は、昭和二七年三月七日に旧八番七の土地と旧一二番一の土地が合筆されて八番七の土地となり、更にこれが同年四月三日に八番一〇の本件土地と八番七の土地とに分筆されてできたものである。)も新三の小作地であり、右各土地と同様に買収、売渡がなされるべきである旨陳情しており、他方陳平は、右土地は畑ではなく自創法一六条の買収の対象にならない旨主張して対立していたが、大河原町農業委員会が仲裁に入り、種々折衝の結果、昭和二六年一一月三〇日、右両者の間で「陳平所有の八番七及び一二番一の各土地(いずれも、前記合筆及び分筆のなされる以前のもの。)を合併し、この稍中間にある柿木より西南に去ること二間の地点を分割点とし、東南分の土地(本件土地部分)を新三に譲渡すること」との合意に至り、その旨の「協約書」と題する書面を作成した(大河原町役場に保存されている右協約書が甲第七号証の八であり、陳平方に残されていた右協約書の写が乙第三五号証である。)。

5  農業委員会は、右譲渡価額については介入しないから当事者間で定めるように伝えたため、その後まもなくして、新三と陳平は双方立会のうえ本件土地部分を測量し、右事情から売買代金を比較的低額の金五〇〇〇円とし、同金額で本件土地を売買することに合意し、同年末までに新三が陳平に同額を支払い、その後右合意に従い、前記のとおり、同二七年三月七日旧八番七の土地と旧一二番一の土地が合筆されて八番七の土地とされた後、同年四月三日新三に売渡された本件土地部分である八番一〇の土地と、陳平の所有として残された部分である八番七の土地とに分筆された。

6  なお右売買に際し、新三及びその子である控訴人は、右売買が前記協約書に基づくものであつたことから、右協約書と別に改めて売買契約書を作成することは要求せず、本件土地の権利証も後日届けてもらえばよいと陳平に伝えておいたところ、結局右権利証は交付されないままとなり、また右合筆及び分筆後の所有権移転登記手続もなされないまま長年月が経過したが、右売買以後新三の側では本件土地の地代を支払う等のことは全くなく、新三及びその子である控訴人らが本件土地上の便所をひきつづき使用し(控訴人方の母屋には便所はなく、本件土地上の右便所を使用していた。)、昭和三六年頃には、本件土地上に右便所と並んで鶏舎を建て、ここで養鶏をする等して本件土地を三〇年以上にわたり占有使用してきた(なお、昭和四六年頃に養鶏をやめてからは、右鶏舎は杭やわら等を入れる物置として使用していた)ものであるが、これについて陳平やその相続人である被控訴人らから異議が述べられたり、地代等の請求がなされたことは全くなかつた(なお、新三及び控訴人は、本件土地の北側に接している河川敷についても、ひきつづき宮城県知事から占用許可を得て、通路及び防風のための竹林として、本件土地とあわせて占有使用していた。)。

また陳平のもとに残された前記八番七の土地は、昭和二七年に佐藤養寿に売渡されたが、同人も終始隣接する本件土地は控訴人方のものと考えており、両土地の境界沿いにコンクリート土台を設置した際にも控訴人に立会つてもらつてこれをなしたが、これらについて被控訴人らの側から何ら異議が述べられたこともなかつた。

7  その後昭和五七年頃に至り、控訴人の子須藤美代子が建物を新築しようとした際、本件土地の所有名義が未だ亡陳平のままとなつていることが判明し、これが放置できないため、控訴人は、弁護士に依頼して陳平の相続人である被控訴人らを相手どり本件土地所有権移転登記手続請求訴訟を提起したが、陳平の長男であり本件土地付近に住んでいる被控訴人山﨑照雄は、裁判所から送達された同被控訴人及びその妻である被控訴人山﨑恒子分の訴状副本及び呼出状を控訴人方に持参して、「本件土地を陳平が新三に売り渡したことはまちがいないので、他の相続人達にもわざわざ裁判所に出頭する必要はない旨通知するから、その書面を作成してもらいたい」旨申し述べたうえ、右訴状副本及び呼出状も必要がないからと言つて置いて行つたため、控訴人が弁護士と相談のうえ、「本件土地について訴状通り陳平が新三に売つたことは間違いありませんので、当日は裁判所に出頭しなくても結構です。」と記載した被控訴人山﨑照雄作成名義の書面(甲第八号証)を一〇通ほどタイプして、同被控訴人方に持参し、同人の妻である被控訴人山﨑恒子も同席のうえ、被控訴人山﨑照雄に押印してもらつた(なお被控訴人山﨑照雄は帳票管理士、被控訴人山﨑恒子は高校教員であり、また右書面の記載は簡単明瞭なもので、右両名が同書面の記載内容を十分に了知していなかつたものとはとうてい認められない。)うえ、これを他の被控訴人らに送付したが、その後、被控訴人山﨑照雄らも右本訴を争う態度に転じたものである。

右認定事実によれば、新三は、昭和二六年一二月頃に、陳平からその所有にかかる本件土地を代金五〇〇〇円で買い受けたものというべきである。

なるほど、新三と陳平との間の本件土地売買契約書は作成されておらず、代金の領収証も交付されていないし、本件土地の所有権移転登記手続もなされないまま長期間が経過していることは前認定のとおりであるが、売買契約書が作成されていないことについては、本件土地売買が前記協約書に基づいてなされたという事情があるうえ、その余の点についても、右協約成立後本件土地売買契約が成立したとみられる時点から、賃料その他の使用料等全く支払うことのないまま、新三及びその相続人たる控訴人らにおいて三〇年余にわたり本件土地を占有使用してきたのに陳平やその相続人である被控訴人らから何らの異議等もなく平穏に経過してきたこと、右協約が整い本件土地売買契約が成立したとみられる時点からまもなくして、右協約及び売買契約に基づくものとみられる合筆及び分筆の手続が陳平によつてなされていること、陳平の長男で地元に残り、最も事情をよく知つているとみられる被控訴人山﨑照雄らが、本訴提起後に至つてもむしろ積極的に本件土地売買契約のあつたことを認める態度をとり、その旨の書面にも押印していることなど前認定の事情のもとでは、前記諸点は、本件土地売買契約の存在を認定する妨げとはならないものというべきである(なお、前記甲第七号証の八の協約書の新三及び陳平その他の作成名義人の名下には押印がないが、前掲甲第七号証の一ないし一一及び弁論の全趣旨によれば、右協約書は、大河原町役場に保存されている「山﨑陳平訴願関係一件綴」中に綴られているものであり、同綴のなかの書面は、その方式及び趣旨からして明らかにその作成名義人によつて真正に作成されたものと認められ、かつその成立について当事者間に争いのない書面であつても作成名義人の押印のないものが相当数みられるし、右甲第七号証の八の協約書自体もその成立について当事者間に争いがないうえ、右甲第七号証の八の協約書に記載どおりの合意が最終的に陳平と新三の間に成立した経過は、右甲第七号証の八を除く右各証拠とりわけ甲第七号証の二からも明らかに認められるところであるから、右甲第七号証の八に押印のないことをもつて、前記協約ひいて本件土地売買契約の存在を否定する根拠とすることはできない。)。

三陳平と被控訴人らの身分関係が原判決添付別紙二記載のとおりであり、陳平が昭和四二年一二月二一日死亡し、同人の妻ちゆ及び被控訴人らが陳平の権利義務を相続により承継し、更に右ちゆが昭和四八年八月二八日死亡したので、その権利義務を被控訴人らが相続により承継したこと、新三は昭和三八年九月二九日死亡したことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一三、第一四号証によれば、控訴人が新三の一切の権利義務を相続により承継したことが認められる。

四以上によれば、控訴人が被控訴人らに対し本件土地売買契約に基づいて所有権移転登記手続を求める控訴人の本訴主位的請求は理由があるから認容すべきであり、被控訴人らが本件土地の所有権を有することを前提として、控訴人に対し所有権の確認及び立入禁止等を求める被控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから棄却すべきである。

よつて右と結論を異にする原判決は相当でないからこれを取消し、控訴人の本訴主位的請求を認容し、被控訴人らの本訴請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官伊藤和男 裁判官岩井康倶 裁判官西村則夫)

別紙物件目録

柴田郡大河原町大谷字下川原八番壱〇一、宅地 214.87平方メートル

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